人文論叢, Volumes 53-54동대학교, 1999 - Humanities |
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... いるのと同じく、渡辺も文を素材表示・関係構成の連続体として捉えている。しかし、時枝が一つの語に詞もしくは辞だけを認めているに対して、渡辺は一つの語に複数の職能をも認めているという点では両者異質であると言える。まとめなおすと、時枝がすべて ...
... いるのと同じく、渡辺も文を素材表示・関係構成の連続体として捉えている。しかし、時枝が一つの語に詞もしくは辞だけを認めているに対して、渡辺は一つの語に複数の職能をも認めているという点では両者異質であると言える。まとめなおすと、時枝がすべて ...
Page 47
... いる「花が咲く季節」などのような場合は陳述を認めない立場をとっていることから、もともと陳述の概念を文の成立を説明するのに導入したのではないかとも思わせられる。これはまた文の「完結」の概念としてだけ使われている渡辺の陳述ともつながるもの ...
... いる「花が咲く季節」などのような場合は陳述を認めない立場をとっていることから、もともと陳述の概念を文の成立を説明するのに導入したのではないかとも思わせられる。これはまた文の「完結」の概念としてだけ使われている渡辺の陳述ともつながるもの ...
Page 48
... いるという点では渡辺と同じだからである。時枝文法では、山田とは異なって、連体詞、副詞、助動詞、用言に伴う零記号の辞に陳述を認めているが、これは山田文法の陳述よりも陳述の範囲が広まったということを意味する。この陳述概念の拡張はその後、用言 ...
... いるという点では渡辺と同じだからである。時枝文法では、山田とは異なって、連体詞、副詞、助動詞、用言に伴う零記号の辞に陳述を認めているが、これは山田文法の陳述よりも陳述の範囲が広まったということを意味する。この陳述概念の拡張はその後、用言 ...